坐禅・参禅

と道元禅師はお示しになられております。
自己の本来の姿を最も純粋に体現したのが、坐禅の姿であります。

普段の私達は生まれて何歳か経つと、親を通じて「自分は○○である」と学習してくるのですが、
それから幾年か経つと更に社会の関係の中で「自分は○○である」と自分認識をするわけです。
しかし坐禅の側から言えば、それらは「思われた自分」ということで、リアルな本来的な姿とは言えないのです。
なぜならば「坐禅は、眠らず、考えごとせず、思いを手放し」の姿勢だからであります。
言葉が先にあるのではなく、言葉の出て来る源まで立ち返るのです。
「思い以前」と言ってもよいでしょう。

「思い以前の自己」とでもいう基点に立ち返って、そこから「思い」も「自分」も
照り返されてあることに気づくことが大切で、繰返し繰り返し、それを狙っていくのです。
ただ、ひたすらに坐禅に打ち込むこむことによって照らされてある自己に立脚することを狙います。
今、私は「基点」とか「立脚」「狙い」と書きましたが、事実、坐禅をしている時は、
このような言葉自体も「手放し」になります。故に無限に坐りゆくのが坐禅であります。
それは「無所得、無所悟の坐禅」、「只管打坐」といった表現にもなります。
証道歌という禅の祖録の中に「妄想をのぞかず、真を求めず、無明の実性即仏性、
幻化の空身即法身、法身覚了すれば無一物」とあります。言い得て妙であります。
どうぞ、「坐禅をやってみよう」と志しを立てて、訪問されることを期待します。

■参禅日
①毎週土曜日・午前2時から4時まで
※会費不要
■12月は1日から7日まで臘八摂心を坐ります
■8月は暑いのですべて休みます
  ■時間割
PM 2:00~2:40  坐 禅

PM 2:40~2:50 

経 行

PM2:50~3:30 

終わって法話(40分程)

坐 禅

 

■心構え
・我流の坐りでなく、無所得、無所悟の只管打坐に徹した坐禅を坐ること。
・急がず、あわてず、今に落ち着き、今を味わうように努める。